Biography -人物紹介-

飛矢﨑雅也 プロフィール

飛矢﨑 雅也(ひやざき・まさや)
誕生日・・・1974 年 1 月 19 日 血液型・・・O 型

[家族構成] 妻、 長女 18 歳、長男 16 歳、次男 5 歳、三男 3 歳

[経歴]
平成 4 年 3 月 長野県立長野高等学校卒業
平成 5 年 4 月 明治大学政治経済学部政治学科入学
平成 10 年 3 月 明治大学政治経済学部政治学科卒業 学士(政治学)
平成 22 年 3 月 明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士後期課程修了 博士(政治学)
平成 28 年 4 月 北杜市へ移住

[職歴]
平成 17 年 4 月 明治大学政治経済学部助手
平成 23 年 4 月 明治大学政治経済学部助教
平成 26 年 4 月 明治大学講師、日本女子大学講師、東京経済大学講師

[自己紹介]
趣味・・・散歩、旅行、読書
尊敬する人物・・・勝海舟
好きな言葉・・・「雲の上はいつも晴れ」
長所・・・意志が強いところ
短所・・・涙もろいところ

[北杜市での活動]
平成 29 年 4 月 「近現代史学習会」講師
平成 30 年 8 月〜10 月 「ひやざき雅也さんと語るハンナ・アーレント」講師

エピソード[誕生~幼年時代]
●1974 年 1 月 19 日、長野県茅野市生まれ。
八ヶ岳西麓の冬はとても寒くて、「干した端からおむつがコチコチに凍っていったよ」と母がよく話していた。
●中学校教師だった父の転勤の関係で、3歳の時に長野市川中島町に引っ越した。初めて幼稚園に登園した日、母と離れるのが不安でずっと泣いていたことを覚えている。
●性格は引っ込み思案でありながら負けず嫌い。
●「雅也を呼びたいときは、本を声に出して読み始めれば必ずやってきた」と母から言われたほど、本が大好きだった。

 

エピソード[小学校時代]
●大好きな読書がどんどん高じ、家族全員分の図書館カードを持って隔週で祖父と図書館に通い、本を十数冊借りてきては読んでいた。ジャンルは、東西の物語から歴史の読み物、推理小説までと幅広かったが、とりわけ歴史関係が好きだった。
●当時流行っていた『キン肉マン』などの漫画も好きで、祖父から「漫キチ」とよくからかわれていた。
●スイミングスクールに通っていた。1 年生から入って 6 年生まで続けた。おかげでどんな泳法もできるようになり、とても感謝している。
●勉強は当初はできなかったが、学年が上がるにつれて成績も上がっていった。「お前は大器晩成だから」と母からは言われていた。
●笑ったときの目元と独特の眉毛がつながっているのが特徴的だった。(雅也担任談)
●母に連れられて通った『子ども劇場』では、犬に育てられたライオンが長じて入れられた動物園から母親恋しさに脱走して、会う寸前射殺された演目を涙ながらに鑑賞したことを覚えている。
●父親がスキー好きで、冬になると連れられてスキー場によく一緒に行っていた。長野県北部にはスキー場が星の数ほどあっていろいろ行った。冬と言えば、スキーだった。
●食べることが大好きで、好き嫌いなくたくさん食べた。とりわけ、母のつくるコロッケ、おはぎ、祖母のつくるすいとん、おやき、薄焼きが好物だった。またリンゴ、桃、ブドウといった故郷で採れた果物も大好きだった。
●弟とはよくケンカをしたが今は仲良し。
●マラソンが得意で、地区の運動会で2位に入って自信になった。

エピソード[中学校時代]
●部活動は軟式テニス部に入った。先輩がとても大きく見えたことを覚えている。
●社会科が大得意で、勉強するのが楽しくて苦でなかった。
●部活動から帰ったら新聞を読むのが日課で、特に政治欄、社会欄に興味を持った。
●部活動の先輩たちの面倒見がよくて、心配していた先輩後輩関係に悩まないで部活動生活を送れた。
●初めて始めたテニスも楽しく、放課後の部活動が待ち遠しかった。
●勉強に特に問題はなかったが、英語ができなくて困った。
●将来の夢は小学校のころからと変わらず学者。本を読むことを職業にできる天職だと思っていた。
●体育では水泳が得意だった。小学生の時にスイミングスクールに通っていたことがよかった。
●部活動では、最後の大会でレギュラーになれず、悔しい思いをした。
●友達の影響で音楽を聴くようになる。ジャンルはポップスやロック。
●小学生の時から飼っていたモルモットのハッピーを、飼い籠の掃除をするために外に出していたら、誤って踏んでしまい、それが原因で亡くなった。悲しくて、どれくらいか忘れるくらい、泣いていたことを覚えている。それ以来、ペットは飼っていない。

エピソード[高校時代]
●憧れの高校に入学。中学校にはなかった弓道班があり、興味と「『飛矢﨑』という姓は弓道にピッタリだ」という勧誘の言葉もあって、入班。
●予想以上の厳しい練習にビックリした。遅くまで行われる練習で帰宅時刻は毎晩 10 時過ぎだった。体が疲れて帰宅後勉強できなかったのと、中学校とは比べ物にならない難易度の授業内容についていけなかった。
●挫折感の中、飛騨白川郷に初めての一人旅をした。
●JR の車両区で車両清掃のアルバイトを同級生とした。自分たちはすぐにくたびれるのに、一緒に働いていた年配の方々はそんな風もなく働いていて驚いた。
●好きだったテニスを忘れられず、一年生の終わりに弓道班を退部して、硬式テニス班に入班した。
●友だちの影響で、ロックにはまった。RC サクセション・忌野清志郎が気に入り、それを入り口にしてローリングストーンズやジミ・ヘンドリックスなどを知った。
●三年生に進級した時、退班する時に後悔したくないと思い、班活動に集中した。
●最後の大会では優勝ペアに負けたが、自分の力は出せたと悔いはなかった。
●班活動がなくなってからは大学入学を目指して、勉強に力を入れた。
●1年生から高校の3年間、新聞配達をした。ちょうどその時期は国内外とも大きな政治変化を迎えていた時期で、10 年に一度起きるかどうかという事件が、毎朝のように見出しを飾っていた。「この時の衝撃が、自分の政治意識に大きな影響を与えている」。

エピソード[大学時代]
●一浪して大学に進学した。テニスサークルに入るも、一年足らずでやめ、アルバイトに明け暮れる日々を送った。
●高校時代の友人と同人誌を出すなどして、文章を書き始めた。
●大学2年生の時に演習で初めて論文というものを書いた。書き方のルールなど初めての経験に戸惑ったが、書き上げた時の充実感はそれまでの人生で味わったことがないものだった。
●演習の仕上げとして、初めてアメリカ合衆国を訪ねた。テキサスを始めとしてルイジアナやミシシッピ、アラバマなどディープサウスと呼ばれるアメリカ南部を廻って、ブルース、ジャズ、カントリーミュージックの生演奏を堪能した。食べ物が美味しくて意外だった。現地の手作りのハンバーガーの美味しさが忘れられない。
●大学3年生から、恩師となった後藤総一郎先生のゼミナールに所属して、日本政治思想史を学んだ。
●大学3年生の夏休みにバックパッカーとして中国を初めて旅行した。冷戦終結後の中国がどこに向かっているのか、知りたかった。「中国はグローバリゼーションの流れの中に全面的にあることを確認して帰国した」。
●大学3年生の春休み中国に続き、インドへバックパッキング。グローバリゼーションは全世界に避けられない運命なのか、知りたかった。「そこには、グローバリゼーションとは関係なくある生が、横溢していた。衝撃だった。インドにいっていなかったら、今日とは違った人生をわたしは歩んでいたと思う」。
●帰国後書いた柳田国男の「遠野物語」についての学位論文が恩師に褒められて、とても嬉しかった。

エピソード[大学院時代]
●一年間の充電の後、恩師の勧めで大学院博士前期課程に進学。大学時代に続いて近代日本の政治思想史、とりわけ大正時代のそれについて、大杉栄という人物を通して研究した。「本格的に研究生活に入り、報告前日は徹夜になることもしばしばだった。膨大な先行研究がある中で、自分自身の視点をどこに定めるか、模索する日々が続いた。」
●苦労して修士論文を書き上げ提出、歴代最高点だと先生から伝えられた時はとても嬉しかった。
●続けて大学院博士後期課程に進学。その年、恩師が脳梗塞で倒れ、続いて癌が見つかって闘病生活の後、亡くなった。全国に野の学び舎「常民大学」を展開されていた先生は、学問面だけではなく、教育面、そして生き方におけるわたしの人生の師であり、逝去の報を聞いた晩は泣き止むことができなかった。
●修業の途中で師を失ったわたしを拾ってくださったのは小西德應先生であった。今度は先生のもとで、近現代日本政治と日本政治史を学んだ。
●大学院生活の途中、大学の先輩の先生の薦めで修士論文が単行本となって出版された。鎌田慧さんが書いてくださった帯の付いたわたしの処女作が自宅に届けられた時の興奮と喜びは忘れられない。
●初めての拙著が出版された年、父が亡くなった。その年の春、父の願いで彼の大好きなスキーに志賀高原まで連れていった。亡くなる前に処女作を届けられたのが、せめてもの救いだった。(写真10)
●処女作の成果を深めて博士論文を完成させるための毎日が続いた。思考というのは孤独な営みだということを痛感する一日一日だった。
●「本当に書き上げられるのだろうか」という不安とプレッシャーの中で誰とも話さない日々が何日も続き、本当に苦しかった。その分だけ、書き上げた時の気分は何とも言えなかった。それまでとは違った地平に立てたように思えた。

エピソード[助教時代]
●それまでの業績が認められて、大学の助教に就任。初めて大学の教壇に立った。東日本大震災の影響で例年よりも1ヵ月遅れでの年度のスタートとなったが、よき学生に恵まれて教員としての出発を切ることができた。


●被災地の宮城県石巻市にボランティアにいき、実際に瓦礫の山を前にして、自然の力の大きさを目の当たりにした。その一方、厳しい現実の中、助け合いを通じてたくましく生活を取り戻そうとしている人びとに出会った。

●海外の学会で研究を発表するという経験を初めてした。緊張で一杯だったが、聴衆から「面白かった」と感想をもらった時はとても嬉しかった。この時にできた友人とは現在でも関係が続いている。

 

 

 

●助教になって1年目の終わりに、祖父が亡くなった。「戦争体験者でもあり、美術家でもあった祖父からは多大な影響を受けた。それは現在のわたしの人生の背骨を形成しているといってもいい」。
●助教に就任して2年目に前年に出会った妻と結婚。夫であるとともに二児の父親ともなった。
●第3子が誕生。命の誕生に立ち会って、自分の体は自分だけのものではないというこれまでとは違った感情が沸々と湧き上がってきたことを感じた。

 

エピソード[大学講師時代]
●第4子の誕生を機に、子育てにより良い環境を求めて、北杜市へ移住。生まれた八ヶ岳山麓で馴染みがあったことと、豊かな自然環境と美しい景観に惹かれて、移住を決めた。
●北杜市の生活にも慣れ始めた頃、近現代史の入門書を刊行したのを機に、地域に根差した学習の場を持ちたいと考え、「近現代史学習会」という歴史を学ぶ市民講座をスタートさせた。
●最初は受講者が集まるのだろうかと心配でならなかったが、近くのコミュニティーの人びとの協力もあり、予想を超える人びとがいらした。今まで疑問にも思っていなかったことを考え直す発見ができて、世界史の中に日本史があるということや歴史の面白さを知っていただけるような講座になるように、試行錯誤した毎回だった。
●その市民講座の受講生の中には、学術的な興味のみならず、実践的な興味を持っておられる人びとが少なくなかった。そんな方々から市民に開かれた政治を実現したいという希望が寄せられた。そこで同業の先輩で、新潟で野党と市民の共闘を実現させた佐々木寛さんにお願いして、講演会「市民政治の育て方」を開いた。当日は、百数十名もの市民が来場され、市民政治を待望する熱い熱気に溢れた。
●佐々木寛さんの講演会に刺激された市民有志が、ここ北杜市・山梨県でも市民政治を実現したいという願いをもって、「市民政治を実現する北杜市民の会」を立ち上げられた。彼らは市民一人ひとりが政治に関心を持ち、県政と市民をつなぐ候補者を擁立して市民政治を実現しようと、自薦・他薦を問わず、2019 年 4 月の県議選に挑戦したいという希望者を募集して、わたしに要請がきた。

●要請を受けて、家族や恩師の他、さまざまな方々に相談の上、出馬を求める多くの声があることを重くとらえて出馬を決断。政治家の道に足を踏み出した。